156 – 参 – 内閣委員会 – 18号
平成15年07月10日
そもそも、育児の社会化というものは、女性のプロレタリアート化、家族の廃止を目的として、エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」で持ち出されてきた概念でありまして、これはロシア革命直後、レーニンが実践して失敗したものとされております。つまり、少年犯罪の増加で国家の屋台骨が侵されたということが伝えられているわけであります。子供の質の問題を重視しますと、あくまで家庭における母親を中心とした育児、もちろん父親やその他の者も積極的にかかわるということではありますけれども、その重要性を重視し、私としては原案に戻すべきではないかと思います。
法案は、女性の労働者としての側面を強調する余り、教育者としての側面、育児者としての側面を軽視していると思われるわけです。母親は子供に命をつなぐ存在であるとともに文化をつなぐ存在であるということを重視すべきだと思います。このことを無視して少子化対策はあり得ないと考えるわけです。
第二に、「もとより、結婚や出産は個人の決定に基づくものではあるが、」との文言が挿入されたことも問題と考えられます。これは、結婚、出産についての女性の自己決定権を明記したものととらえられておりますけれども、自己決定権なる概念は学説の一つにすぎず、法的概念としてはいまだ熟しておりません。それに、ここから女性のリプロダクティブヘルス・ライツという概念を読み取り、中絶の自由を正当化するおそれさえあると考えられます。堕胎は刑法で禁止されており、母体保護法で例外的に許されているものにすぎません。これは前文に言う「少子化の進展に歯止めをかける」の趣旨に大きく反していると考えられるからです。結婚や出産はもとより強制できるものではありません。そのことは言うまでもないことでありますから、この文言は不要であり、逆に独り歩きすることを私としては懸念をしております。これも原案に戻すべきだと思います。